ミシェル・フーコーの名言
[1926.10.15 - 1984.6.25]
フランスの哲学者。フランス国立高等師範学校、エコールノルマル卒。パリ大学教授、コレージュ・ド・フランス教授を歴任。狂気や性、刑罰といった概念に潜む権力や知などの構造を研究し、人間が無意識的に前提している思考の形式を問う認識論において業績を残した。本人はそれとは認めていないが社会の基底的な構造を研究せんとする、いわゆる構造主義の一翼を担う哲学者として著名。同性愛者で、エイズにより死去。著書は『狂気の歴史』『言葉と物』『知の考古学』 『監獄の誕生』『知への意志 性の歴史1』『快楽の活用 性の歴史2』『自己への配慮 性の歴史3』『肉の告白 性の歴史4』『精神疾患とパーソナリティ』『精神疾患と心理学』『言説の境界』『これはパイプではない』『外の思考 ― ブランショ・バタイユ・クロソウスキー』『マネの絵画』 『カントの人間学』『ユートピア的身体/ヘテロトピア』『哲学の舞台』等。
What is true for writing and for a love relationship is true also for life. The game is worthwhile insofar as we don't know what will be the end.
執筆や恋愛関係にとって真実であることは、人生にとってもまた真実である。結果が分からないからこそ、勝負のしがいがあるというものだ。
The main interest in life and work is to become someone else that you were not in the beginning.
人生と仕事とにおける最大の関心事とは、初めとは別の何者かになることである。
The problem is not to discover in oneself the truth of one's sex, but, rather, to use one's sexuality henceforth to arrive at a multiplicity of relationships.
課題は、自らの性の真実を見出すことではなくむしろ、これより自らの性的傾向を使用して関係性の多様さに到達することである。
There is object proof that homosexuality is more interesting than heterosexuality. It's that one knows a considerable number of heterosexuals who would wish to become homosexuals, whereas one knows very few homosexuals who would really like to become heterosexuals.
同性愛が異性愛よりも興味深いということへの客観的な証拠がある。それは同性愛者になりたがる異性愛者が十分な数だけいるのを知っているのに、異性愛者に心からなりたがっている同性愛者をほとんど知らないということである。
A critique is not a matter of saying that things are not right as they are. It is a matter of pointing out on what kinds of assumptions, what kinds of familiar, unchallenged, unconsidered modes of thought the practices that we accept rest.
批評というのは、物事がそのままでは正しくないと言うことではない。それは、我々が受け入れている慣行が、いかなる想定であり、いかに慣れ親しみ、問題にされず、考慮されていない思考様式であるかについての指摘の問題である。
I think that the ethico-political choice we have to make every day is to determine which is the main danger.
我々が日々なすべき倫理-政治的選択は、主たる危険がどちらであるかを判断することであると思われる。
The public execution is to be understood not only as a judicial, but also as a political ritual. It belongs, even in minor cases, to the ceremonies by which power is manifested.
公開処刑は司法上の儀式としてのみでなく、政治的なそれとして解されるべきものだ。それは軽微な事件においてすら、権力の発現としての式典に属するのである。
The public execution has a juridico-political function. It is a ceremonial by which a momentarily injured sovereignty is reconstituted.
公開処刑には、法的-政治的な役割がある。それは、一時的に傷付けられた統治権を再構成する儀式なのである。
In the ceremonies of the public execution, the main character was the people, whose real and immediate presence was required for the performance.
公開処刑の儀式においては、主人公は大衆であり、それは遂行のためにその場に居合わせることが求められたのだ。
There is no power relation without the correlative constitution of a field of knowledge, nor any knowledge that does not presuppose and constitute at the same time power relations.
知の領域との相関的構成なしに権力関係が存在することもなければ、権力関係を前提とし、また同時に構成しないような知が存在することもないのだ。
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