「エルンスト・ブロッホ」の名言

エルンスト・ブロッホの名言


エルンスト・ブロッホ

[1885.7.8 - 1977.8.4]

ドイツの哲学者。ヘーゲルマルクスフロイト・宗教的神秘主義等の影響のもと、人々がユートピア的な衝動に駆られており、それが芸術や文学・宗教・社会運動に現れていることを示し、また共産主義社会の実現によって解放と創造性がもたらされ資本主義による疎外や抑圧が克服されるとした「希望の哲学」を展開。ルートヴィヒスハーフェンでユダヤ人の鉄道局官吏の家に生まれ、ヴュルツブルク大学で哲学の博士号を取得し、またそこでジンメルやルカーチらと知り合う。一次大戦の激化によるスイスへの亡命中に発表した『ユートピアの精神』でアドルノやベンヤミンから激賞を受ける。一旦ドイツに戻るもナチス勃興により迫害を受け、再びスイスへ亡命。その後、アメリカへと渡り、『この時代の遺産』を発表。感情の表現を作品に託す表現主義がナチズムに影響を与えたとするモスクワ亡命中のルカーチに対し芸術を肯定的に捉えた、いわゆる「表現主義論争」を展開。第二次大戦後は東ドイツへ帰国し、ライプツィヒ大学で哲学教授となり、『希望の原理』を上梓。その後西ドイツに移住し、チュービンゲン大学教授就任。著書は他に『未知への痕跡』『哲学の根本問題』『異化』『キリスト教の中の無神論』『ナチズム―地獄と神々の黄昏』『世界という実験』等がある。

 



 

Only an atheist can be a good Christian, only a Christian can be a good atheist.

 

無神論者だけがよきキリスト教徒になれるのだし、キリスト教徒だけがよき無神論者になれるのだ。


(タグ:哲学



    




The most tragic form of loss isn't the loss of security; it's the loss of the capacity to imagine that things could be different.

 

もっとも悲劇的な喪失の形態とは安全性の喪失ではなく、事態が別様であったかもしれぬと想像する能力の喪失なのである。


(タグ:想像力 悲しみ



    




In death too, there is always something of the rich cat that lets the mouse run before devouring it.

 

死においてもまた、食い殺す前に鼠を走らせる裕福な猫のような何某かのものがつねに存在するのである。


(タグ:



    




The futility of bourgeois existence is extended to be that of the human situation in general, of existence per se.

 

ブルジョア的存在の無益さは、人間の一般的状況、存在それ自体の無益さにまで拡大されている。


(タグ:存在



    




The soul must accept guilt in order to destroy existing evil, lest it incur the greater guilt of idyllic withdrawal, of seeming to be good by putting up with wrong.

 

魂は存在する悪を滅ぼすために、罪を受け入れねばならない。牧歌的な後退、つまり誤りに耐えることによって善に見えるというより大きな罪を招かぬためにである。


(タグ:  



    




Indiscriminate ideological suspicion of any idea, without the urge to exalt an idea of one's own, will discourage rather than promote lucidity.

 

自らの考えを高めるようなつもりもなく、あらゆる考えを見境なくイデオロギー的に疑うことは、明晰さを促進するどころか挫くものであることだろう。


(タグ:疑い 思考



    




Evil does not approach us as pride any more, but on the contrary as slumber, lassitude, concealment of the "I."

 

悪はもはや誇りとしてではなく、反対にまどろみ、倦怠、「私」の隠匿として、我々に迫ってくるのである。


(タグ: 誇り



    




The true genesis is not at the beginning but at the end, and it starts to begin only when society and existence become radical, i.e., grasp their roots. But this root is man himself.

 

真の創生とは始まりではなく終わりにあるもので、それは社会や存在が抜本的になる、すなわち、その根本を掴むときにだけ始まるものだ。しかし、この根本とは人間それ自身なのである。


(タグ:始まり 終わり 社会 存在



    




We hear only ourselves. For we gradually become blind to the outside world.

 

我々は、ただ自分自身の声しか聞かない。なぜなら我々は、次第に外の世界に盲目になってしまうからだ。


(タグ:自分 世界



    




We walk in the forest and feel we are or might be what the forest is dreaming.

 

我々は森の中を歩き、森が夢見ているものになっている、あるいはなるかもしれないと、そう感じるのである。


(タグ: 感情



    




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